昭和52年03月23日 春季霊祭



 御霊様のお祭りを奉仕させて頂くたんびに、実感するんですけれども、いよいよ私共が信心により、いうなら金光大神のお取次ぎによって、私共が根本的な助かりを得なければならないなということでございます。それは、目先目先の様々な難儀から解脱していくというか、難儀な問題が解決になり、おかげを頂いていくということも、大事ですけれども、そのおかげを通して、根本的に私共が助かるということ。それを御霊様のお祭りを奉仕するたんびに実感いたします。
 もう二十七、八年も前でございましたでしょうか。春か秋どちらか忘れましたけれども、霊祭の前夜その当時は、ほとんど一晩中がかりで、翌日のお祭りを奉仕さしてもらう。そして私共も喜べれ、御霊様も限りなく、縁につながる御霊達が助からなければならないことのための御祈念を前の晩にさせて頂くんです。それでちょっとまだ御祈念まで時間がありましたから、あの当時の楽室が控えになっておりましたから、控えで休ませて頂きましたら、休ませて頂いたと思ったらあの、お夢を頂いた。
 それももう、それこそ御本部参拝なんかさせて頂きますと、あの何万という人たちが、こう、あの大祓なんかを上げますとね、それをジッと目をつぶって頂いておりますと、ワァーという声に聞こえますですね。あの会堂にこだまして。もうそれがなんとも言えん、その有難い雰囲気ですね。と言う様に、その私のそのお夢の中には、どれだけの人がおるやら分からないけれども、「おかげで助かりまして」という、その喜びのどよめきになって、それがもうズーとなって響いてくるんです。
 いよいよ明日、御霊のそのお祭りを受けることのできれる御霊達が、「おかげで助かって」という、その喜びが、そのひとつのどよめきになって、私の信心に響いてくる。これは、もう二十数年も前の私の体験でございますけれども、本当にこの人が助かる。御霊が助かる。いうならば、私共のいわゆる魂が助かるということ。これほど素晴らしいことはございません。魂がいよいよ助かっていくということ。そのために、私共が精進をさせて頂くのです。
 今朝からの御理解の中にも、「かわいいと思う心が神心じゃ。」とあります。が次には、「心で殺すのが重い罪じゃ。」この世ではいわば傷つけたり、殺したりいたしますと、この世にはこの世の、いうならば掟というものがあって、その掟どおりに裁かれる。いうならば、その死刑になったり、または懲役に行ったり、罰金を治めなければならなかったりというわけである。けれども「心で殺すのは重い罪じゃ。」と「人は知らんけれども神が見ておるぞ。」という御理解が次にございます。
 お道の信心の一番素晴らしいところはね、「かわいいと思う心が神心じゃ。」と仰せられる、その「神心」をいよいよ「神心たらしめる」ということにあります。仏教では慈悲を説きます。キリスト教では、愛の心を説きます。金光教ではその人間が、神心を説く。人間が生まれてくる時に頂いておる神の心。その神の心が段々我情我欲に苛まれるようにね、その神心がどこえやら、その向こうにある神心とは、もう似ても似つかない反対の心が生まれてくる。いわゆる浅ましい心である。
 もう鬼のような心である。もう本当にあの人は夜叉じゃろかと言う様な心であります。我情であり、我欲あり腹を立てた時に、もう相手にこうつかみかかって行くと言った様な心、もうこれは鬼の心です。残念で残念で、はがゆうして、はがゆうしてたまらん。「もうこの仇を、もうそれこそ討たずにおくもんか」という心は、私はもう鬼の心だと思うとります。そういう心が、私共の心の中には、いうなら佛心と鬼心がひとつ、神心とそういう夜叉のような心が同居しておるというても良いのです。
 そういう心の状態を見極めて、教祖金光大神のみ教えを頂いていく。「信心とは、一年一年有難うなっていく」と仰る、その一年一年有難うなっていくという稽古をさせて頂くのです。ところがこれはもう稽古をしなかったら、何十年経っても、金光様のご信心を頂いておっても、有難くなれません。やはり本気で稽古させてもらう。「信心とは本心の玉を磨くもの」「信心とは日々の改まりが第一」という。
 この改まりとそして本気で本心の玉を磨かせて頂くと言う事が、あいまって参ります所から、どう言う事になってくるかというとね、「神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃ。」と言う様な、三者一体が喜びのひとつの塊になっていく状態が生まれてくる。神様が喜んで下さる、お取次ぎをして下さる金光大神様が喜んで下さる。そして私共も一緒に喜べると言う様な、信心を目指すのでございます、これはもう限りがない事です。「もう、これしこ喜んでもらったから、ええ」と言う事がない。
 もう限りがない。ですからまた限りないおかげにも恵まれると言う事になります。私は今朝から、もうこりゃもう大変な事だなと、もうこれは本当に合楽が、今日ここにいわば誕生して、今年がまる十年になります。その記念の御年柄に当たって、皆さんも一生懸命心を砕いて、十年祭十年祭と思いをかけておられます。十年合楽が誕生して、私はあの時に、開教式の時だったと思いますがね、こつ然としてここのお広前が、この合楽の地に誕生した「もう本当にこつ然とであった」と言う事を、言葉を使いましたがね。
 私は昨日お道の新聞を見せて頂いておりましたら、金光様の先生達、若い先生方がある日蓮宗のお寺さんの、そのなんですか法華経の解説があるというので、あれはなんかなんとか八章になっておりますね。その法華経を説いたのが八章に分けて、それが毎日十二章か。それが十二日間で一章つづの説明があるというので、聞きにいかれたという話が出ておりました。それで最後に十三日目に、毎日いわば講義を受けてどういう感じであったかというて、問われたけれども、誰も返事をするものがなかった。
 中に一人まあ忌憚なしにポンポンいう人があってね「十二日間通いましたけん、けれども、なぁにもなりませんでした。まるっきしおとぎ話を聞くようでした。」というておりました。そしらそのお坊様が言われ「そのおとぎ話でも聞くような気持ちになっておったら、充分効果はあったんだ。」と言われたというお話が出ておりました。その中に例えて言うと、大きないうなら仏教の伝道というですか、伽藍というものがですもうそれこそ田んぼの中から、こつ然とその現れてくる様子が書いてあるそうです。
 いうならば本当におとぎ話のようなお話なんです。だから教典と言った様なものを、例えばその時その時の、例えば人間がそれを信じるならば、それで良いけれどもそれが信、例えばこつ然と、いうならばがそのああいう立派な建物が、こう浮かび上がってくる、出来上がるなんて言っても通用しない。私はそこんところを読まさせて頂きながら、合楽だって同じだと思います。だんだんこれが私が亡くなって、だんだんなると、終いにはそういうことになってくるかんしれん。
 なにせ私がお話しとりますから。開教式の時に親先生が忽然として、この合楽教会が出来たんだと。ですからあの教典とか、例えばバイブルでもね、というものが記録に残っておるのが、今から私共がそれを聞くと、まるっきりおとぎ話のようであって、それこそ嘘八百を並べてあるかの様にありますけれども、まぁどこからその計算が出来るのか、知らんけれども、やはりそおいうひとつの教理というものが出来上がっておる。
 今まで過去かつてなかった、いわば合楽で言われるところの合楽理念というものは、そういう例えば、ぼつ大な教典とかぼつ大な、いうならバイブルの中にある、教えというものを、私共人間が頂こうとすることは、もう至難である。出来ないのである。そして一生やはり罪に苛まれ、一生因縁のために苦しまなければならない。そしてまたあの世に行って、地獄の苦しみを受けなければならない。  
 先月お彼岸のお中日の日に、高田後胤さんのお話があって、なかなかお話が上手。こんなに厚い、いうならば地獄の様相を書いた経文を前にして、「これからお話をするのですから、間違いありません。お釈迦様が説かれたことですから、絶対に間違いがない話をするんだ。」というて、地獄のお話を、それも地獄も八つかに、分かれております。その半ばごろまでを、説かれましたが、それこそ身の毛もよだつような、地獄絵図を見せながら、説明をしておられます。
 その地獄の一番軽い地獄で、一億二千万年苦しまなければならない。身がついたかと思うと、鉄の爪で鬼がかじってしまう。ようやく身が出来けたと思うと、またかじられる。もういつも骨皮だけで過ごさんならん。しかもその鉄の爪でかじられる時の苦しみというものは、もうどうにもこうにも出来ない苦しみ。しかもそれを一億二千万年、どこからああいうふうに計算が出てきたのか分かりませんけれども、きちっとやっぱりその計算の上に立ったひとつの教えなんです。
 仏教哲学と言われるのですから、やはりそういうことが説いてあります。してみると人間の、もうほとんどの人が地獄に行かなければならないということになります。人間はいうならばもう持って生まれた時からね、原罪というもの、そのために人間の苦しみはあるんだと、キリストは説いております。そういう例えば、宗教を観念的にでも、私共が、それを、まあ、宗教の難しさというか、素晴らしさということを、そういうところに置いたら、宗教の救いはないことになります。
 教祖金光大神様が御出現になられて、それこそ「天地の間におって、氏子おかげを知らず。前々のめぐりで難を受けおる」。その「前々のめぐりで難を受けおる」ということが、天地に対するお粗末が、御無礼が思い違い考え違いが、人間の難儀の元になっておるんだと、天地の親神さまは教祖様を通して、始めて自分のいうならば、今までかつて明かされたことのない心をあかされた。それは御理解三節に出てくる。
 日柄を言うたり方位を言うたり、自分のものでもないものを自分の物の様に思うたりね、そこからもう意図簡単に、人間のいうならめぐりのもと、難儀のもとというのは説いてありますけれども、ならそれをスッキリとね、一切が神様の御物であるとか、または日柄を言わんですむ、方位を言わんですむ、こんにちこの今日という、この日が一番尊い有難い日なのだと分かるまでには、相当な時間がかかります。
 まあ金光様の信心をすらりゃ、そう言われるけれども、やっぱ結婚式を上げる時には、吉日を選んで、家を建てるといやあ、やっぱ家相のひとつも見てもろうたり。と言う様な気持ちがスッキリと取れてしもうて、しかもそういうことが滑稽に見えてくるように、もう実にそれは、人間万物の霊長としては、恥ずかしい限りであることが、分かってくると、本当に分かると言う事は、やはり教えを頂いた上にも頂いて、いうなら体験から体験を積んでいかないと、成程日柄とか方位とかあるものではないんだ。
 あるというのは、自分であると決めるからなんだということなんです。今朝から先ほど、竹内先生が前講で申しておりましたように、今朝から私が頂いて、これは大変なことだなと、本当に合楽がここに誕生するということは、教祖生神金光大神が御出現になられて、そしていうなら人間の助かりの根本というものを解き明かされて、それがだんだん時代が経つにしたがって、難しゅうなってきている。
 又は難しいとか、あまりにもいと簡単で、なんか教祖様のみ教えというのは、なにか食い足りない、物足りないと言った様なものすら感じられるようになって来た時に、合楽が出現した。そして、合楽で教祖様のお言葉の深さ広さ、しかも今までかつてもう前人未到の道を合楽で開かせて頂いておるということ。いうならば助かりの理念である。人間が助かっていくという理念である。それを楽しく有難く、しかも愉快に行じられれる手立てを、創り上げようとしておるのが、現在の合楽教会。
 先ほど先生が言ってました、頭で分かり心でこなし、体で実行して行かなければ、ならいかにね、助かりの理念だというても、それを頭で分かっただけでは、助かりにはつながりません。けれども絶対の道だと、そこに焦点を置かせて頂く時に、自分の心が魂が愈々本当の助かりを願い求めると言う事になったら、それを実行しなければおれないのだけれども、我情があり我欲があり、自分の思いが成就する事だけが、おかげの世界の様な中に住んでおったんでは、何時まで経っても真の助かりはありえません。
 そういう意味で御霊様達は、もう第一肉体がない。いうなら心だけの世界魂の世界。しかも魂の世界でいわば、うごめき出した。「これは合楽理念を頂いておったおかげで、これは私たちも助かられるぞ。」と助かられるということだけに、魂が助かるということだけに専念するから、御霊様の助かりというものは、私共よりも助かり良いということ。今日は私、あのう皆さんが玉串をずっと上げられます時に、もうそれこそ遅ればせながら、走り込んできた御霊の姿を拝んだんです。
 それは私がお話がし良いように、また私が、その意味が分かるように下さるのであって、御霊様がそういう状態で入って来られたということではありません。私共の話にして分かることのために、神様が私にお知らせを下さった。それが丁度外は雨風という感じ。それに傘をこうすぼめてから、こんなんして走りこんでくるんですよ。そして「まぁおかげで濡れんで良かった。」と言うて、「まぁようやく、その玉串にもまにおうて良かった。」と言うて、走り込んで来られる御霊さんがあるんですよ。
 私はもうここで思わず嗚咽が出るほど、有難いと思いました。皆さんどう言う事だと思いますか。御霊様のいわばそれこそ仏教的に言うならば、極楽の世界におかげを頂いておると言った様な御霊はごく少ないです。というてなら地獄の苦しみを味わっておる御霊も、また沢山あり地獄の苦しみと言うでしょうかね、やっぱりね。所が一度合楽理念を頂かせて頂きますとね「私でも助かる事が出来るんだ」というものが生まれてくる。
 そして朝晩いうならば、御祈念を頂いたり、み教えを頂いたりして、御霊ながらに心を開いておる。それでも、なら御霊がいっぺんに助かると言うのではない、それこそ「今が私の人生の雨風じゃろうか。」というような、御霊も沢山あるという意味なんです。皆さんでも様々な難儀を持って、「はぁ、今が苦労の真ん中じゃろうか。」と言うて、難儀をしておられる。
 そこから「助けて頂きたい」と一生懸命、神様に向かわせて頂いておったら、その難儀なことも苦しいことも、「雨も風も、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。」というみ教えを頂きますと、その雨が風が、いうならば有難うなってくる。そこには、もうすでに魂の助かりがあるわけ。例えばなら地獄の苦しみがあっておってもです、これによって、いうならば過去のお粗末ご無礼が消えていっておるんだ、これによってめぐりのおとり払いを頂いておるんだ。
 けれども、信心という、合楽理念という、安心の傘を頂いておるおかげで、「おかげで濡れんで、今日もここにお参りが出来ました。」という御霊の姿であると思います。お金に不自由、難儀をしておる御霊もあろう、それこそ雨風に苛まれとる御霊もあろう。まぁ、あらゆる難儀という難儀は、ありますけれども、その難儀の中に心が開けてくる。その難儀を難儀とせずに、合楽理念を頂くと、それ一切が神愛であるということが分かってきた御霊が、もうすでに魂が助かった。
 今朝私は、あぁ昨夜ちょうど二時ごろまで、もう御霊様の方では、本当にあの手がいらんようになった。昨日私一番昨日有難いと思うたことは、あの前夜に色々と以前はね、もう御霊様のことが、一晩かかってもうお腹がペコペコ減って、お腹が減っておる時なんか、御霊様につけこまられるごたる感じがしてね、もうお腹いっぱい食べといて、そしてからもう本当に、おロウソクひとつの光の中で、御霊様との対決でしたから、大変ないうならば力みもいれば、まぁ怖いようなこともありました。
 けれども段々、段々おかげを頂いてくるということと同時に、私自身にも力が出来てきた。だからおかげで、それが平気になり、天地の親神さまのおかげを頂かなければ出来ることではないですから、もうほとんど天地の親神さまへ、今日の御霊様のことをお願いをする。そりゃぁもう合楽にご縁を頂いておる御信者、それこそ「袖すり合うも他生の縁」と言われる、もう他生の縁でも、いっぺんでも合楽にお引き寄せ頂いた方たちの、係わり合いの御霊。
 本人はもうなんとも思ってないかもしれんけれども、それに関わる魂の世界に、それこそ、うごめくようにして苦しんでおる御霊たちは、それを縁に助かろうと精進するですね。ですから例えば、これだけの参拝者ですけれども、御霊の世界もうこれはどれだけあるか分からないわけ。こんなもんなら、合楽にご縁を頂いておる人に関わる所の御霊たちだけでもどれだけあるか分からない、というほどしの御霊様たちがね。
 今日のお祭りを境に、また一段と御霊の位も進まれて、心を開いていかれることであろう。ご神前で御祈念をさせて頂いておりましたら、「合楽の世界に鬼はない」ということを頂きました。合楽の世界に鬼はないのだ。先日の御理解の中にも、「合楽は世界の桃源郷だ」と言う様な御理解を頂いた。合楽というところは、合楽ということ。いわゆる神様と氏子とが拝み合う世界。神様と氏子とが、御礼を言い合える世界。そういう世界にはもう、鬼はいないんだと。
 例えば後胤のお話を聞くとです、もうあらゆるところに赤鬼青鬼がおって、色々にいうならば魂を苦しめる。これは現世においてもやっぱり同じことが言える。私共の心の中にさっきから申します、もう腹立って人に掴みかかりたいごたる時には、もうすでに鬼に苛まれているんですよ。腹が立ったり情けなかったり。いわゆる難儀を感ずる時には、やはり自分の心の中の鬼が、私自身を責めておるのです。
 それと反対に同じ事柄であっても、有難い勿体ないという時には、もう神心が愈々強うなっておる時です。御霊様の前に出らせて頂きましたら、あの絵に書いた桃太郎さんが、大きな桃太郎さんがね、実に印象的でした。でこうなんか椅子に腰掛けとる。と前に沢山の鬼が、ははぁちいうて、平伏しとる所を頂いた。もう二十七、八年も前でした。私が修行してあちらこちらにお話に行っておる時に、私の信心にいわばついてまわっておられた、善導寺の久保山先生、秋永友良先生、それから久富正義先生。
 その時分に私を日本一の旗を立てた桃太郎さんとこう言う。それに犬、猿、キジの面々が、こうまぁ太郎たい。鬼征伐を何十年間してきたと言う事。その鬼征伐をした暁に、生まれたのが合楽理念の確立と言う事でありましょう。だから合楽にはもう鬼はいないんだということ。そういう世界に御霊達が住まわせて頂いて、ただいうならば自然の雨が降るとか、風が吹くとかあれが足りん、これが足りないと言う様な事やらの、いうならば修行はしておりますけれども、鬼に苛まれるような、生身をかじられるような苦労はしてはいないということです。
 それが例えば、本当に普通で言うたらね、この雨風に傘も持たなかったら、濡れしもうとらならなきゃならいとこだろうけれども、おかげを頂いて合楽理念という傘を持たせて頂いておるおかげで「今日も濡れんでお参りが出来ました」と言う様な喜びの中に生活をしとる。そんならばそういう魂の世界だけではなくて、なら人間の世界はなおさら、そうであらなければいけない、合楽にご縁を頂いておる人たちは、もうすべてがそういう理念に基づいた生き方をさせて頂くならば、一切御礼を申し上げることばぁっかり、と言う事なのにもかかわらず御礼が言えない。
 まだ自分の心の鬼に苛まれておると言う所にです、信心のいうならば焦点。昨夜田主丸の共励会から、文男先生と竹内先生、それから末永先生三人帰って来て私が暫く、ここで御祈念の時間まで、暫く話しておったんですけれども「文男さん、あんたおかげ頂いておるばい。」ち私が申しました。もう合楽の信心のギリギリの所は、どこだろうかというならば最近四、五日私が毎朝、皆さんにも聞いて頂いているようにこの自然界ね。
 この天地金乃神様のお働き、この自然界には一切のもの、これは動植あの動物でも植物でもね、小さい動物でも、ですから人間万物の霊長であるといわれる、人間の上にはなおさらのこと、自然界が私共に働きかけられると言う事は、もう一切を丸くしよう、丸くしようという働きだけしかないと言う事。一切を丸くしよう一切を丸くしようという働きだけしかない。だからそれを「そうだ」と知って分かって、どういう問題が起きても、「はぁ神様が、このようにして私を丸くして下さろうとしておる。
 もうこんだんだんとは、ちっとばっかしひどかばってん、やっぱがんこな所をすり減らして下さるためには、やはりこれを合掌して受けなければいけない、という頂き方以外にもうなかろうね。」と話しました。合楽理念のギリギリのところというたら、そういうことになるのじゃないだかろうか。それをみんな腹の立つような問題にしたり、情けない問題にしたり、もうそれこそ、相手に掴みかかって行きたい様な事にしてしもうたんでは、せっかくの天地自然の働きを無にすることをなるから、御無礼になる。
 お粗末になる。もう合楽理念をね、だんだん極めていくと、そこになるんじゃなか、と。それには先ず自然界には、そういう働きがあっておるんだということを先ず信ずることだ確信することだ。そして自然界は私共に、丸うしよう丸うしようという働きがある。ところが、なら丸うなっただけではおかげにならん。そりゃあ高い所から落ちるでも、丸うなって落ちるとケガせんというぐらい。だからケガせんだけじゃぁいかんわけ。それに人間の幸福の条件が足ろうて来なければならないところに、信心がいる。
 信心でなからなければ頂けないという喜びがいるのです。ならその喜びというのは、どういう風にしなければ頂けない、自分で喜ぼうとして喜べるものではありません。神様に与えられるもの。その与えられる喜びを愈々育てて行こうという働きがいるのです。それをはじめに申しましたように、神も喜び、金光大神も喜ぶという、神様も喜んでくださり、氏子も喜べれるという、中に立ってくださったお取次ぎの金光大神様も喜んで下さるという信心をいよいよ身につけていかなければいけない。
 いよいよ、有難い善導を受けなければならない、そこから有難いな、もったいないなという、おかげが生まれてくる。そのおかげの世界に入らせてもらって、自分の心の中に、いつも心に喜びの椛目があるのである。喜びの心しかもその喜びの心を常に持ち続けさせて頂く、常中心の中に喜びが絶えない、それを極楽の世界というのです。今までの宗教者というのは、もうここまでしか説かなかったんです。
 その極楽の世界から、もうすぐそこに合楽が見えておる。合楽の世界というのは、自分だけが(?   )に治まっておるのではなくて、その喜びを持って、実意丁寧、愛の心を持って人にも伝えて行こうというような働きなのです。神様に喜んで頂くような、社会が明るうなるような御用なんです。愈々自分の頂いておる光を、愈々光の輪を広げていこうという精進なのである。そこに神も喜びと言う事になってくる。
 「師匠に習うた事を忘れてしもうて、師匠がどれだけ徳をすると言う事があるかと、よく覚えておって、あなたのおかげで出世したと言えば、師匠も喜び」と仰せられる。天地の親神さまのおかげを頂いて、そしてこの様なおかげを頂いて、勿体ないと御礼を申し上げれば神も喜び、金光大神も喜びと言う事になる。昨日一昨日は親教会の霊祭でしたから私と若先生と、それから幹三郎と竹内先生と四人で参拝のおかげを頂きました。
 もうやっぱし七十年も、八十年も歴史を持った教会にもなりますとね、大祭の時よりか多いですよ。それはもう昔の信者さん方がおられてね、案内がずっといくわけですよ、昔の信者さんたちの案内が行きますから、そのうんなら、子とか孫とか孫の嫁たちとかがね、もうちゃんと、じいちゃんやら、ばあちゃんがしよんなさったように、お寿司をつけてくるところもありゃあ、お饅頭を作ってくるところもある。
 そりゃあもう念のいったことです。もうそしてほんなら、そういう霊祭の時だけしか参らん。もう信心が絶えてしまっているわけですから。けど御霊さんのお祭りの時ぐらいは、まあじっちゃま、ばばしゃまを、あそこにお預けしとるけん、というてお参りをする。もう、あの例えば椛目というところは、非常にもと熱心に善導寺にお参りをしましたが、今は、ほとんどお参りがありませんけれども、霊祭の時だけは、必ず六人七人お参りがあってる。それもそれぞれに、ちゃんとお重箱持ってですね。
 大祭には参らんけれども、霊祭だけには参る。いや霊祭にももう参らんごとなっとるというのも、もう数限りなく善導寺の場合なんかはあることだろうとこう思いますけれども。祭員が親先生と、幹三郎とあのう、若先生とそれから鳥栖から、あそこには出社が、星野と北野とここが三軒出社なんです。でそれに星野もいつでん来ちゃるとに来ちゃなかもん。北野もいつも来なさるのに来ちゃなかもん。そんでほんの内々でのお祭りでしたけれども、私は思いました。
 あのおかげを頂くと、頂かんという差は、もうほんのわずかです。みなさんも中にご承知の方がありますように、私と善導寺の仲は、そりゃあもう大変なことでした。もうそれこそ、もうまぁいうなら、四十五年の記念祭から、五十年の記念祭の、あの五年間というものは、そのために空白が出来るというぐらいでした。親先生にも大変なご心労をかけたでしょうけれども、私共合楽のもの当時の椛目のものとしても、血の涙が流れるような思いをいたしました。
 丁度その四十五年と五十年との、丁度半ば頃に、あの二十八年の大洪水でございました。私はもうどんなに、もう親教会とは、断絶になっておるように人は言うけれども、私は毎日、お日届けはさせて頂きました。毎日自分で書かせて頂いて、お初穂を奉る。もうそれが丁度大洪水の時には、こんなせり箱を二段にしたぐらいにたまっておりました。まだその時分は門外不出。合楽もなにもかにも腐れてしまった。
 親教会でも畳は全部腐れたという話を聞いて、まぁだビチャビチャしとおる、もう水が引いたというその時点で、久保山先生に、すぐそれを持ってご挨拶にいってもらいました。もうそしたら久保山先生が泣き泣き帰ってこられました。それがお初穂なんか水見舞いに、何かお寿司か何か付けて持ってきたと思いなさったんではないでしょうか。「椛目からそんなもんばもらいよるとね、またどげな宣伝に使われるじゃろか分からんから。」というのがお返しの言葉でした。「そげなこと言わっしゃったの。
 そんならもうこれっきりたいの。」と私は思わなかったです。なぜって、どう言う様な、どんな場合であってもです、これは私の子供たちにも、孫たちにも言い伝えておることですけれどもね、「三井教会があって、現在の合楽教会があるんだ」ということなんです。どういうことであっても、私はやっぱりそのあくる日から、またお初穂をこれはもう、大水に浸かって濡れましたからね。
 全部とってしまいまして、そしてまたあくる日から、ちょうど五年間お届けをさせて頂きまして、五十年祭には寒気がゆるんで、まあみんなでお参拝が出来るようになりましたが、その記念祭の時には、もうそれこそ、今までかつてない、思う存分の御用がでけました。五年間のそのお初穂のおかげで。その後は思うぞんぶんどころではない、それこそ夢にも思わなかった御用がだんだん出来てくるようになった。
 そんならば大坪さん、「合楽が、あ三井教会にこんなに、おつくしなっとるげな、たいしたことだと。」とは思いもせん。これはいついつまでも、どこまでもどれだけ、なら御用がでけたからというて、それはね、元金が返されてと言うようなものではなくて、まあいうならば、利払いが、ようやく出来たというぐらいなことではなかろうかと思う。これは、もう永劫末代まで、この考え方は捨てられない。
 これは私の信心なんだ。そして私がこのことを思うてね、善導寺から帰ってきてね、ははぁ本当に昔の信者さんがたが、霊祭だけに参ってくると程度、いや参ってこないという人。または、なら出社があるのに、出社からも出て来ていない様な事では、やはりたったそれだけの違いだけれども、おかげを受ける人、受けられない人が、はっきりしてくる思いがします。
 そこにですいうならば、「おかげで今日の合楽がございます」と喜べば、師匠も喜び、金光大神も喜び、神も喜び私自身も喜べれるという世界が開けてくる。だから信心の心がけというようなものはね、もう本当に、もうそれこそもう、もうとにかくね、根本のところを大事にしていく。それをいうなら、私は今日はね、根本的の助かりということは、心が本当に助からなければ、いわば、「あなたのおかげで」ということにはなってこないのである。その根本的な助かりを願い求めてからの信心。
 そこに合楽世界があるのです。合楽世界には鬼が住まない。合楽世界の中にはね、そういう、いがみ合いとか、責め合いとか、腹の立つような日日というものが、だんだん影を潜めてきて、それこそ有難いであり、勿体ないであり。いよいよ合楽理念のマスターと合楽理念の研究ね。頭で分かり、そして心で合点させてもろうて、それを行の上に現していく。「自然界には、一切を丸うせずにはおかんという働きがあっておるんだ」だから、そこに、どういう問題が起きてきても。
 「私が、どうしてこげな貧乏くじを引かなならんだろうか。どうしてこういう情けない思いをしなければならんであろうか。」という世界には、もう合楽理念の行者とは言えない。自然は、天地の親神さまは、このようにして、いよいよ円満な心を下さろうとしておるんだ、豊かな心を下さろうとしておるんだという頂き方を、まず思いこむこと。そこからいよいよ和の心が生まれてくる。そして神も喜び、金光大神も喜び、自分も喜べれる世界へ、私どもが発足していく。
 信心させて頂くものが、かくあらなければならない、いよいよ本心の魂を磨くことに精進し、日々の改まりを第一とさせて頂く信心、させてもろうて、その喜びを神様が喜んで下さる御用にお使いまわしが頂きたい、お役に立ちたい、立ちたいの、一念を燃やしていくという信心。そこにきせづして、与えられるのが、喜びである。そこで和と喜びがそろうた。和賀心。この和賀心と言うのは、また限りがない。限りなくこの和賀心を願い、和賀心をいわば基軸としての信心生活が出来てくる。
 そういう願いに立たせてもらう信心。そういう意味で御霊様は、もうそのことだけに専念しておられるから、御霊様は素晴らしいんだということです。魂の助かりだけしか願ってござらんから。ところが私共には我情があり、我欲があって、この我情もというのも自分の思い。自分の思いが思うごとならんかったら、おかげじゃないごと思うたり、それこそ十銭儲かれば良かとに、十二銭も儲けようと思うたり。
 そういう我情我欲を、まずは取る事の精進をさせてもらうところから、わが身は神徳の中に生かされてある喜びにひたらせて頂いての信心生活が出来るようになる。それも話じゃない、合楽の場合には、もうそういう世界に一歩、皆が踏み入れている。そういう絶対の道をこれから私共が極めて行こうというところから、「合楽には鬼は住まない」ということが、あの世だけではない、この世にも鬼の住まない世界に住むことが出来るということになるのでございます。
   どうぞ。